ロシアの歴史
History of Russia


<スラヴ民族>

スラヴ民族の故郷はドニエプル、プリピャチ、ヴィスワ、ドニエストルの4つの川に囲まれた森の世界とされているが、8世紀頃から長い年月をかけて次第に東スラヴ、西スラヴ、南スラヴへと分化して行った。 ロシア人もスラヴ民族の一派であり、言語、地域、宗教により、スラヴ民族は以下のように大別されている:

* 東スラヴ人・・・ロシア人(大ロシア人)、ウクライナ人(小ロシア人)、ベラルーシ人
* 西スラヴ人・・・ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ソルブ人
* 南スラヴ人・・・ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人、スロヴェニア人

それぞれの民族は互いに違なる言語を話しているが、単語や文法などは非常に似通っており、例えばロシア語でポーランド人に話し掛けてもかなりの割合でお互いに理解し合う事が出来る。 

スラヴ諸民族は9−12世紀に掛けて、順次キリスト教を受容して行った(ロシアが公式にキリスト教を受け入れたのは989年)。 この中でカトリックを受け入れた国としては、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、スロヴェニア、ギリシア正教を受け入れた国としては、ロシア、ブルガリア、セルビア・モンテネグロを挙げる事が出来ます。 文字体系は、カトリックを受け入れた国々がローマ字を、ギリシャ正教を受け入れた国々がキリール文字(いわゆるロシア文字)を使用しています。 キリール文字はブルガリアのキリール兄弟が考案した文字で、その名を取ってキリール文字と呼ばれている。

<キエフ・ルーシ>
キエフは最初【クヤヴィヤ】と呼ばれていたが、街の創始者である【キー、シチュク、ホリフ】の名にちなんで【キーエフ】と改称された。 キエフ・ルーシとはロシアの古い呼び名で、ロシア語で【ロシアの】【ロシア人】を意味する【ルースキイ】(русский)は、この【ルーシ】(Русь)という国名が元となっている。 ロシアという国名が最初に用いられるようになったのは、15世紀末頃からだと言われているが、元々【ルーシ】はギリシャ語で【ノルマン人】、アラビア語で【スペイン・フランスにいるノルマン人】という意味であった。 このキエフ・ルーシは、その名前の通り、キエフ(現在はウクライナの首都)が最初の首都であったが、チンギス・ハンの孫のバトゥに率いられヨーロッパまで進出して来たモンゴル軍により徹底的に破壊され、モスクワにその座を奪われる事となった。 キエフは堅固な城壁に囲まれていたが、モンゴル軍の前に9日で陥落したという。 その後バトゥは突如兵を帰し、ヴォルガ川の下流にキプチャク・ハン国を建国し、一体を支配する事となった。 彼等はその後現地人と同化し、タタール人と呼ばれるようになった。 これが240年以上にも及ぶロシアの【タタールのくびき】の始まりである。 キエフが全盛の頃、モスクワはまだ辺境の一都市に過ぎず、キエフは【ルーシ諸都市の母】と呼ばれていた。

<アレクサンドル・ネフスキー>
モンゴル軍がルーシに遠征して来た頃、ロシア北方ではスウェーデン人、デーン人、リトアニア人、ドイツ騎士団の脅威が迫っていた。 スウェーデン人はすでに12世紀頃からフィンランド湾岸地域やカレリアの支配権をめぐってロシア北方にあったノヴゴロド国と対立していたが、1240年にはその一隊がネヴァ川まで進出して来た。 この時スウェーデンのロシア侵入をくい止めたのが、ノヴゴロド国のアレクサンドルである。 この勝利はその後のロシアの民族意識の高まりと共に高く評価され、アレクサンドルはやがてネフスキー(ネヴァ川の意)の称号を手に入れ、アレクサンドル・ネフスキーと呼ばれた。 彼は1242年にもドイツ騎士団を撃退し、長く英雄として語りつがれる事となった。 但し、彼の力を持ってしてもルーシをタタール人から開放する事は出来ず、タタールのルーシ支配は結局15世紀後半まで続いた。

<モスクワ大公国>
15世紀後半、イヴァン3世に率いられたモスクワ大公国は、周辺の諸国を併合し、ロシア国家統一を進めた。 商業都市として大いに栄えた大ノヴゴロドも、1478年にモスクワに併合された。 イヴァン3世、ヴァシーリー3世と続くモスクワ大公国の大公位を継いだのが、イヴァン4世(雷帝)である。 彼はわずか3歳で皇帝に即位し、幼い大公の元では有力貴族間の争いが絶えなかったが、イヴァンはロシア史上で初めて、【ツァーリ】(皇帝)として戴冠する事となった。 この頃からルーシは正式に【ロシア】を名乗り、現在へと至る。 イヴァンは処刑や弾圧を積極的に行い、民衆を恐怖に陥れた。 特に1570年のノヴゴロド遠征では、2,000〜15,000人が虐殺されたと言われている。 同年モスクワでは、100人以上の者が一度に公開処刑されるという事件が起こり、それを指示したイヴァン4世は【雷帝】と呼ばれ、人々から恐れられた。 イヴァンの死後、実権を握ったのが、ボリス・ゴドゥノフである。 雷帝の子フョードルとドミートリイが死んだ後、彼は皇帝として即位した(1598年)。 元々彼は皇帝家の血筋ではなく、ドミートリイを暗殺したという噂もあったため、1604年に雷帝の子ドミートリイを自称する者、偽ドミートリイがポーランドの支援下で蜂起する結果となる。 翌年、ボリスは死に、偽ドミートリイがモスクワに凱旋するも、1606年にはモスクワで暴動が起こり、偽ドミートリイが殺されてしまう。 この後、強固な権力を失ったロシアは内戦にあけくれ、ピョートル皇子や偽ドミートリイ2世ら偽って皇帝の血筋を名乗る者が次々と現れるようになり、更には1601年から1603年にかけての大飢餓も手伝い、ロシア内政は混乱を極めた。 この混乱に乗じてポーランド軍が介入し、モスクワは2年2ヶ月の間ポーランドに支配された。 この混乱の時代は【スムータ】(動乱)と呼ばれている。

<ロシア帝国>
ポーランドの支配から解放されたモスクワで1613年、ロシア各地から代議員5,000人を召集して全国会議が開かれ、16歳の少年ミハイル・ロマノフが皇帝に選出された。 これが300年にも及ぶロマノフ王朝の始まりであった。 ロマノフ王朝初期(17世紀)、ロシアは精力的に領土拡張を進め、広大なシベリアへの進出を果した。 当時モスクワを中心としていたロシアは、この時代にユーラシア大陸を大きく覆う広大な帝国へと変貌した。 ロマノフ王朝の最も注目すべき皇帝は、ピョートル1世(大帝)であるが、彼は少年時代に西欧の人々から数学や砲術、造船術などを学び、権力を握った後も西欧の進んだ文化を模範としてロシアを改革しようとした。 ピョートルはまずロシア海軍(艦隊)を創設し、1696年にアゾフ海に遠征して勝利を収めた。 また、その翌年には、オランダやイギリスを訪問し、帰国後ロシア人の服装や政治のシステム、年号の数え方を西欧風に変更した。 軍事面でも彼は活躍し、スウェーデンとの北方戦争(1700−1721)に勝利し、バルト海沿岸をロシアの領地とした。 バルト海沿岸の港を手にしたピョートルは、早速新たな首都サンクト・ペテルブルグの建築を指示し、1712年には首都がモスクワからペテルブルグへと移された。 

<エカテリーナ2世>
18世紀後半のロシアで帝位に就いていたのは、プロイセンから幼くして嫁入りし、ロシアに帰化したエカテリーナ2世であった(在位1762−1796)。 エカテリーナはシュテッテンのクリスチアン・アウグスト公の第一息女であり、本名をゾフィー・フォン・アンハルトといった。 生粋なドイツ人である彼女は15才にしてロシアへと渡り、ピョートル3世の妻となるが、クーデターにより無能な夫を退けてロシア女帝の座へと登りつめた。 エカテリーナは常にロシアを理解しようと努め【祖国の賢母】と呼ばれたが、ロシア人の中にはドイツから来た女帝を快く思わない者も多数いたため、最終的には1773−1775年、殺された夫ピョートル3世を名乗るプガチョフによりロシア南部で【プガチョフの大反乱】が起った。 初期のエカテリーナ政府は国内経済の活性化のためにヨーロッパ諸国に殖民を呼び掛け、ヴォルガ川の中下流にドイツ人を中心に約6300家族を入植させた。 更にエカテリーナは啓蒙思想の学習、病院や孤児院、学校の建設を進め、ロシア近代化に貢献した。 また、彼女の治世にウクライナ、ベラルーシをはじめとするポーランド領を獲得した。 1789年、フランス革命が起こり、この革命に刺激されて自由思想が広まる事を恐れたエカテリーナは、ラジーシチェフやノヴィコフといった多くのロシア知識人を迫害した。

<ナポレオン戦争>
エカテリーナ2世の後を継いだ息子のパーヴェル1世は、自分を愛してくれなかった母を憎んでいたため、母帝の否定に明け暮れ、即位後間もなく暗殺された。 パーヴェルの死後、皇帝となったのはエカテリーナのお気に入りの孫であるアレクサンドル1世であった(在位1801-1825)。 1804年にフランスの皇帝となったナポレオンに対し、1804年にオーストリアと、1805年にイギリスと同盟を結んだロシアは、対仏大同盟を結成しフランスに戦いを挑むが、1805年にモラヴィアのアウステルリッツで敗北する。 その後ロシアはフランス寄りの政策をとり、イギリスを苦しめるための【大陸封鎖】に参加するが、1810年に大陸封鎖を離脱し、両国の関係が悪化した。 こうして1812年にナポレオンのロシア遠征が開始された。 ロシア軍がモスクワを放棄したため、ナポレオン軍は9月にいとも簡単にモスクワに入城したが、ロシア軍により火を放たれ、モスクワは一週間燃え続けた。 この時モスクワの3分の1が廃墟と化した。 フランスを出発したナポレオン軍は50万と言われているが、苦しい行程の末にボロジノの会戦でロシア軍と衝突した時は、既に14万にまで減っていた。 この戦いの後、フランス軍はモスクワ火災のために食料を全く確保出来ず、更にはロシアの厳しい冬の寒さから撤退を余儀なくされてしまう。 食糧難から10万にまで減ったナポレオン軍はロシアを後にするが、帰路も苦しい道程でフランスに帰国出来た兵士は3万人と言われている。

<デカブリストの乱>
ナポレオン軍を追って西欧を巡ったロシア人青年将校たちは、外国と比べてロシアが特殊な状況にある事を知った。 ロシアでは権力を皇帝が握り、また農奴と呼ばれた農民たちが奴隷のように売買されていたのである。 青年将校たちはデカブリスト(12月党員)と呼ばれる組織を作り、1825年にアレクサンドル1世が急死すると、その混乱に乗じて【専制と農奴制の廃止】を訴え、首都ペテルブルグで蜂起した。 これが【デカブリストの乱】と呼ばれる反乱である。 しかしデカブリストの乱は何も出来ないまま鎮圧されてしまった。 デカブリストの乱の後、ロシアでは検閲が強化され、自由な議論が出来なくなったが、思想上の論争や文学といった言論活動は活発に行われていた。 この時代の思想の重要な動きとしては、ロシアの伝統に意義を見出し西欧を批判するスラヴ派と、西欧を認める西欧派との論争を挙げる事が出来る。 また文学では、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリ、ドストエフスキーといった著名な作家たちが活躍した時代でもあった。

<ニコライの帝国>
19世紀、ニコライ1世の時代にもロシア帝国は拡張を続け、コーカサス地方や中央アジア、シベリアが次々と領域に加えられた。 しかし、オスマン・トルコとのクリミア戦争(1853−1856)、露土戦争(1876−1878)により、クリミア戦争で敗れたロシアは黒海での特権を、一方、露土戦争で敗れたトルコはバルカン半島の領土をそれぞれ失う事となった。

<農奴解放>
クリミア戦争の敗北の結果、ロシア国内の政情は不安定になり、皇帝アレクサンドル2世は、この状態を打破するために【農奴解放】を実施した(1861年)。 それまで農奴は領主の所有物として扱われていたが、この状態を改善し農奴も土地が所有出来るようにしたのである。 国民の大多数を占める農民に関係したこの問題は世論を2分したが、実際に実行された解放は土地所有の条件が厳し過ぎたために解放に賛成した人々にも満足を与える結果とはならなかった。 やがて社会主義運動が盛んになり、この運動に参加した者は【ナロードニキ】と呼ばれた。 彼らの運動は政府弾圧の中、テロリズムへと発展し、1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。 皇帝暗殺以後、ロシアでは革命運動への弾圧が強化され、運動は下火となった。 その一方で、鉄道建設が盛んに行われ、工業が発展した。 1837年からはシベリア鉄道の建設が始まり、1890年代に完成した。

<日露戦争と1905年革命>
20世紀に入るとロシアでは経済の高成長が止まり、各地で学生を中心とした革命運動が再燃した。 当時ロシアは東方への進出を進めるためにシベリア鉄道を建設し、領土の更なる拡大を狙っていた。 一方日本はロシアの動きを警戒しつつ、朝鮮や満州への進出を計ろうとしていたため、当時満州を占領していたロシアとの間で対立が生じた。 1904年、日本はまずロシアに対して国交の断絶を宣言し、続いて日本軍は先々布告なしに旅順と仁川を攻撃し、ついに日露戦争が開始される事となった。 ロシア国内では危機的状況が続き、更には帝国内の被弾圧民族であるポーランド人、フィンランド人、ユダヤ人の手伝いもあって、日本軍は優位に戦争を進めた。

日本との戦争はロシア国内で反戦運動へと変わり、1905年1月、司祭ガボンに率いられた首都の労働者とその家族数十万は憲法制定会議の招集、政治的自由、法の前の平等、団結権、8時間労働を求めて皇帝の宮殿である冬宮を目指した。 しかし、この運動は武力鎮圧され、多数の死傷者を出す結果となった。 これがペテルブルグで起きた【血の日曜日】事件である。 この事件の結果、皇帝に対する国民の信頼は大きく揺らいだと言われている。 日露戦争後の10月、ロシア国内の不満、混乱を鎮めるため、皇帝は選挙に基づく国会の開設を約束し、国内の混乱はようやく終息へと向かった。 12月にはモスクワで再度武装蜂が起ったが、この年の一連の動きは【1905年革命】と呼ばれている。

<第1次世界大戦>
ロシアの革命運動は、10年ほど沈滞していたが、1914年に入ると再び盛り上がり、各地でストライキが続発した。 1914年6月28日、ボスニアのサラエボでオーストリア皇太子とその妻が暗殺され、これを切っ掛けに、ロシアはフランス、イギリスと共にオーストリア、ドイツを敵に回してヨーロッパ大戦を戦う事となった。 ドイツとの開戦により、首都のサンクト・ペテルブルグはドイツ的な名前からロシア風のペトログラードへと改称された。 ドイツとの戦いは困難を極め、ロシアは開戦翌年には退却を始めた。 史上最大の戦争であったこの大戦により、ロシア国内の混乱は更に強まり、国民の不満は頂点へと達した。 この頃ロシア宮廷では怪しい宗教家のラスプーチンが暗躍していた。

<2月革命と10月革命>
1917年の2月(ロシア暦)、ペトログラードで労働者によるパンを要求するデモが起こり、それを止めに入った筈の軍隊もデモに合流した。 民衆運動により皇帝は退位に追い込まれ、国会とソヴィエト(労働者と兵士、社会主義者の集まり)が権力を握る事となった。 2月革命の結果、皇帝は退位したものの、国内の混乱は収まらなかった。 第1次世界大戦は継続され、デモやストライキが繰り返される中、軍人コルニーロフが軍事独裁を目指しクーデターを起こした。 10月にはペトログラードで社会主義者のレーニンやトロツキーが指導するボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党のレーニン派)と政府軍が衝突、レーニン率いるボリシェヴィキが勝利を収めた。 こうしてロシアは世界初の社会主義国家【ソヴィエト社会主義共和国連邦】としての第1歩を踏み出す事となった。

<ソ連邦の成立>
本来ロシア革命が目指したものは、社会を構成するメンバーが全て平等に活動する社会であったが、現実には、共産党の一党独裁体制が出来上っただけであった。 革命後、革命を起こしたボリシェヴィキ(レーニン派)は、全ロシア=労働者・兵士・農民ソヴィエト大会を開き、ボリシェヴィキが指導する新国家が成立した。 1921年の第10回党大会では分派活動の禁止、党の決定への絶対服従が決定されたため、政治的自由は完全に失われ、全体主義国家が誕生する事となった。 この傾向は1922年のレーニンの死後、スターリンによって一層強められた。

レーニンに代わってソ連の指導者となったスターリンは、トロツキーら有力な政治家たちを、次々と政界から追放した。 そうして自分の地位を強化したスターリンは、1928年から五ヵ年計画を導入し、計画経済を開始した。 この生産活動は、全て国家の計画に基づいて実施される事になった。 また農業においても、個人経営は否定され、集団化が進められた。 農場は集団農場として国営農場に再編成され、国家による穀物の調達が確保される事となった。 同時に有力な農民はクラーク(富農)と呼ばれ、迫害され収容所に入れられたり、追放されたり、あるいは移住させられたりした。

1930年代になると、【粛清】が始まり、スターリンの体制を揺るがす可能性を少しでも持つ者は【人民の敵】と呼ばれて逮捕、処刑、または収容所(ラーゲリ)に送られた。 収容所で彼らは強制労働に従事させられ、シベリアでは零下40度を下回る厳しい条件のもと、死ぬまで苛酷な作業を強いられる事となった。 こうした被害を受けた者は、350万人とも1,200万人とも言われており、第2次大戦後、日本人捕虜も同様の苦い体験を強いられた(シベリア抑留)。 また第2次大戦中、スターリンはチェチェン人やタタール人、朝鮮人などを民族ごと遠い土地へ移住させた。(その結果、ソ連崩壊後の地域紛争を巻き起こす事になる) こうした迫害を続けながら、スターリンは自分の体制を揺るぎないものにして行き、ソ連国内には多数のスターリン像が建造された。

<第2次世界大戦>
1939年、ソ連はヒトラーが率いるドイツとの間に独ソ不可侵条約を結ぶ。 この条約により東側からの脅威を考えずに済むようになったナチスドイツは、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦の幕開けとなった。 ドイツは1941年にソ連にも侵攻し、独ソ戦は連日激戦が繰り広げられた。 この大祖国戦争でソ連軍は勝利を収めたが、数十万人もの死傷者を出す結果となる。 戦後、東ヨーロッパ諸国は社会主義体制に転換し、ソ連を中心とした社会主義経済圏が形成された。 当時、アメリカとソ連は対立し、この2大超大国を中心とした世界各国の対立は「冷戦」と呼ばれた。

<雪どけ>
スターリンの死後、1953年にソ連の指導者となったフルシチョフは、多数の人達を粛清しながらも英雄視されていたスターリンを批判し、米ソの対立も一時的にゆるんだ。 しかし、1964年にフルシチョフが指導者の地位を追われ、ブレジネフがその後継者となった。
ブレジネフの時代、ソ連は世界の技術革新から立ち後れ、後のソ連崩壊への引き金となる。 1982年にブレジネフが死ぬと、ソ連の指導者のプストはアンドロポフ、チェルネンコと目まぐるしく変わる事となる。

<米ソ対立>
米ソ対立により、ソ連は戦後特に軍事力に力を入れ、原爆や水爆といったさまざまな核兵器を開発した。 当時、科学技術は軍事と並んで重視された。 1950〜60年代、人工衛星やスペースシャトル等の宇宙開発部門でソ連は常にアメリカを一歩リードしていた。 しかしながら、日常生活に必要な生活物資については革新が全くがなされず、生活は次第に質素なものへとなって行った。 賄賂やコネが日常的に横行する社会の中、生産活動は完全に沈滞し、日常物資の不足が深刻化し、困窮を極めた。この結果、人々は商店に長い行列を作るようになり、遂には国が発行するクーポンがなければ配給品すら手に入れられないという時代を迎えた。 ソ連の立ち後れを決定づけたのは、「停滞」時代にコンピューター革新に失敗した事であり、日々進化するコンピューターの分野においてソ連はアメリカに完全に出遅れ、1980年代には「遅れた国」として認識されるようになる。

<ペレストロイカ>
1985年にソ連書記長に就任したゴルバチョフは、【ペレストロイカ】(ロシア語で「再建」の意味)と呼ばれる改革を断行した。 ゴルバチョフは国内の経済状態をまず建て直し、国際競争力を回復しようとした。 次に周辺諸国との関係を修復し、米ソ対立で拡大した軍事費用削減を実行した。 ゴルバチョフは各国を歴訪し、平和的な関係を築上げた。 これが切っ掛けとなり、当時東西に分断されていたドイツの統一が実現した。 次に国内の民主化を進め、【グラースノスチ】により言論の自由を拡大、ソ連が過去に犯した政治的失敗を明らかにした。 ゴルバチョフが行なったペレストロイカ政策により、旧ソ連邦の人々は、言論の自由、民主主義、個人や民族の尊厳を重視するようになった。 これにより各地で民族運動が活発になり、1991年末、世界初の社会主義国家は遂に解体した。

<CIS独立国家共同体>
ソ連邦の崩壊に伴い、1991年12月20日カザフスタンのアルマトィでCIS独立国家共同体が発足した。 この共同体の目的は、ロシアが各国に一定の影響力を持ち続けるための組織としての性格が強かったため、共同体発足以前に既に独立を果たしていたラトヴィア・リトワニア・エストニアのバルト3国は参加せず、ソ連構成15共和国中12カ国のみの参加となった。 しかしながら、旧ソ連圏に共通の経済圏・安全保障圏を維持するという当初の目的はほとんど果たせず、それおぞれの国々はロシアから大きく離反して行った。 旧ソ連邦は現在、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのスラヴ3国、同民族のルーマニアとの関係を模索するモルドヴァ、アゼルバイジャン・グルジア・アルメニアのコーカサス地方、カザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタンの中央アジア地方、CIS自体に参加せずにEU加盟を果たしたバルト3国に大別する事が出来る。 


<カスピ海パイプラインを巡る争い>
冷戦終了後、米ロの対立は沈静化したかのように見えたが、カスピ海からのパイプラインのルートを巡って、米ロ間の争いが再び表面化した。 旧ソ連時代、ソ連とイランに囲まれて西側資本からは閉ざされていたカスピ海は、ソ連邦崩壊により、一躍新たな石油資源の開発地として脚光を集めるようになった。 その埋蔵量は北海油田やアラスカの油田を凌ぐと言われ、第2のペルシャ湾とも言われるようになる。 西側の資本家はこぞってカスピ海の開発に乗り出すが、ロシアはこの石油権に特別な権利を主張し、アメリカを中心とした西側の進出に警戒心を強めた。 ロシアはパイプラインの通行税を目的に、パイプラインの自国内の通過を強く主張したが、産油国であるカザフスタンやアゼルバイジャンはロシアを通過しないルートを主張、西側の支持を得た。 1996年10月、アゼルバイジャン沖の石油開発を進める西側連合体は、とりあえずロシアルートと非ロシアルートの双方を選択し、双方の顔を立てる形となった。


<ロシアとバルト3国>
バルト3国とは、バルト海に面したラトヴィア・リトワニア・エストニアの事を指す。 この3カ国は第一次世界大戦時にロシアから独立して、それぞれ国際的にも承認された独立国であった。 しかし、1939年ソ連とナチスドイツの密約【モロトフ・リッベントロップ協定】により、ソ連の勢力圏とされ、その後ソ連に強制的に編入された歴史を持っている。 バルト3国はこの編入を不法として、独立への意思を持ち続け、1990年にソ連からの完全独立を宣言、1991年になり遂に国際的にも独立が承認された。 ワルシャワ条約機構解体後、歴史的にロシアに対して強い脅威を感じていたバルト3国は、2004年5月にポーランド他の東欧諸国共にEUに正式加盟した。 ロシアはバルト3国内に多数のロシア系住民を抱えているため、バルト3国のEU加盟には絶対反対の立場を取っていたが、ロシア系住民の権利保障を条件にEUへの加盟を認めた。 独立宣言時はロシア側も武力介入を辞さない緊迫した関係が続いたが、最近では双方が実務的に相互利益の観点から関係を改善しようとする動きも目立っている。 バルト3国にとってロシアは非常に大きな市場であり、ロシアにとってバルト3国はヨーロッパに向けた輸出入の経由地である。 この背景を理由に、双方の相互依存関係が近年では強まりつつある。


<ウクライナ・ベラルーシとの関係>
ロシア・ウクライナ・ベラルーシのスラヴ系3国は、旧ソ連邦内においてもつねに中心的存在を演じ、1922年の連邦条約の最初の調印国もこの3国で行なわれた。 それから70年後の1991年12月、ベラルーシのベロヴェシュでこの3国が再び集まり、ソ連邦の解体を宣言した。 ロシアとベラルーシは1997年4月条約により再び統一国家を目指した動きが見られたが、ロシアとウクライナ黒海艦隊とクリミア半島の帰属を巡り関係が悪化した。 しかし、1997年5月に基本条約が結ばれ、黒海艦隊の分割、およびクリミアのセバストーポリの領有権の問題が解決され、両国の関係は正常化した。 近年ウクライナはロシアを離れてアメリカ寄りの路線を模索したが、最近ではEU加盟等ヨーロッパ寄りの動きを見せている。

<民族問題>
多民族国家ロシアには、100以上の民族が暮らしており、人口1億4600万人の内、ロシア人の割合は約81・5%である。 続いてアジア系のタタール人が3・7%ウクライナ人が2・9%、トルコ系とフィン系の混血であるチュバシ人が1・2%となっている。 ロシアが他民族国家になったのは、ウラルやシベリア等の東部、コーカサスや中央アジア等の南部へ進出を始めてからである。 トルコ系やモンゴル系、コーカサスの諸民族を次々を征服し、ロシア正教の他にイスラム教やラマ教を信仰するさまざまな民族を包括する大帝国へと成長した。 ソ連時代、【諸民族の友好】というスローガンの基、民族主義は常に抑圧されてきた。 しかし、ペレストロイカによりモスクワが急速に求心力を失うと、各地で民族主義が勃発しソ連は解体した。 現在ロシア国内ではチェチェン共和国がロシアからの完全独立を求めて闘争中で、この他にもタタルスタン共和国等がよりモスクワに対してより強い自治権を要求している。 民族問題はロシアにとって対策を誤れば連邦自体の崩壊を招きかねないパンドラの箱とも言える。

<チェチェン紛争>
ソ連邦の崩壊後、バルト3国やウクライナ、カザフ共和国等の連邦を構成していた国々は次ぎ次ぎと主権宣言を行なっていった。 そんな中、ロシアの自治共和国であった、チェチェン・イングーシも1991年9月に独立宣言を行なった。 チェチェン・イングーシはソ連邦崩壊後のロシア連邦条約への参加も拒否し、兄弟国であるイングーシもエリツィン前大統領によりチェチェンから分割され、ロシアへと編入された。 現在でもチェチェンは共和国はロシアからの独立を主張し続け、ロシアの統治が及ばない状態が続いている。 1994年にはロシアによる軍事介入が始まり、第一次紛争が始まった。 ロシアの思惑に反し、チェチェン側は激しく抵抗し、ロシア、チェチェン双方に多数の死傷者が出た。 戦闘は膠着状態となったが、1996年8月、チェチェン問題を5年間先送りする【ハサビュルト合意】で双方合意し、ロシア軍はチェチェンから全面撤退した。 その後チェチェンではイスラム系武装勢力が台頭し、この武装勢力が関与したと思われる各地でのテロや誘拐、殺害が今でも相次いでいる。