オーストリア共和国  Republic of Austria


 <先史時代>

 今日のオーストリアは、中部ヨーロッパに位置する小国家だが、その起源を求めるとかなりの歴史を遡る事が出来る。 現在のオーストリアの
 地には有史以前から人間が住み、多くの民族が移動して来た。 オーストリアはヨーロッパの中央に位置するがゆえに、大陸のさまざまな
 歴史的出来事と運命を共にして来た。 ヨーロッパの辺境地として出発したオーストリアは、数世紀の間に多民族による強国へと発展して
 行くが、第一次世界大戦後、国家崩壊の憂き目に遭う。 その辺境地誕生から大国家の崩壊までの間、オーストリアは2つの王家、すなわち
 バーベンベルグ家とハプスグルグ家によって支配された。 第一次世界大戦後は小さな共和国が誕生し、周辺諸国との協調関係を築き上げ
 なければならなかった。 第2次世界大戦とそれにまつわる不幸な出来事により、オーストリア共和国はヨーロッパで果すべき使命を認識した
 小国家として存在している。

 <イリリア人とケルト人の故郷>

 地形的に守られた高原地方には、旧石器時代、すでに集落が存在していた形跡があり、起源前8万年から1万年にはドナウ川周辺にも人が
 移り住んでいた。 クレムス地方で発見された「ダンサー」や「ヴィレンドルフのヴィーナス」は、古代文化を考証する重要な出土品である。 
 この地に移ってきた民族は、次第にそこに定住するようになる。 新石器時代には農業や牧畜も営まれ、金属製の道具も使われた。 1991年
 にはアルプスエッソ谷の氷河の中から石器時代のものと見られるミイラ発見され、話題を呼んだ。 紀元前800年から400年にかけて旧石器
 時代のオーストリアの地には、インド・ゲルマン語族に属するイリリア人が住み、すでに塩や金属での交換貿易を営んでいた。 これは当時の
 貴重な出土品があった地名を取ってハルシュタット文明と名付けられているが、さらにケルト人によって継承され、交易によってヨーロッパ中に
 広められた。 さらに西ヨーロッパから移り住んだ民族は、組織の強化された君主制を築き上げた。 その経済を支えたのは、塩ならびに
 シュタイヤマルク地方から採れる質の良い鉄であった。


 <ローマ時代のオーストリア>

 イリリア人やケルト人と長い間交易を営んでいたローマ帝国は、紀元前後の頃になると現在のオーストリア一帯をほとんど占領した。
 ローマ人の侵入に伴い、当地にはレティア、ノリクム、パンノニアの3つの属州が誕生し、ローマ帝国の辺境地として重要な位置を占めるように
 なる。 そしてヴィンドボナ(ウィーン)、イゥヴァヴァム(ザルツブルグ)、ブリガンティウム(ブレゲンツ)などのローマ人による集落が誕生した。
 ウィーンの東部に位置するパンノニア属州のカルヌントゥームは、オーストリアの地における当時最大のローマ人都市で、最盛期には2万人の
 人口を擁していた。 これらの属州にはローマの文明、宗教、行政組織がもたらされ、また、紀元後2世になるとオーストリアにもキリスト教が
 広がり始めた。


 <民族移動>

 東方から民族の移動が始まるとローマ帝国の支配にも陰りが見え、この地でのローマ人の力も弱まって、ゲルマン人が国境を越えて入り
 込んで来た。 ローマ帝国が滅びるとラテン文化やローマの習慣もだんだん薄れ、それに続く民族の大移動の期にはあらゆる民族が入り
 込んで国土は荒れていった。 6世紀になるとバイエル人がここに根を下ろし、東方からのスラヴ人やアヴァール人と衝突したが、数多くの
 戦いを経てこの地を確保した。 農耕民族のバイエル人が定住すると、ローマ時代の都市は弱体化した。 オーストリアの教会の歴史はすでに
 4世紀に始まるが、パッサウ、レーゲンスグルグ、ザルツブルグの司教区にはこの地の開拓に力を貸した。


 <カロリング辺境伯領とオットー辺境伯領>

 フランク王国のカール大帝はアヴァール人との戦いに勝つと、エンス川、ラープ川およびドナウ川の間に東方の要塞として、カロリング辺境
 伯領を築いた。 しかし9世紀末にはマジャール人がオーストリアの地に侵入し、バイエル人の軍勢「アプド・ヴェニアム(ウィーン近郊の意)」に
 決定的な打撃を与えた。 こうして東部辺境伯領は滅びたが、955年、オットー大帝はマジャール人を破り、辺境伯領の奪回に成功した。
 970年頃、カランタン辺境地はエッペンシュタインにより独立地域となったが、エンス川とトライセン川の間にあるこの土地は、976年に
 バイエルン出身の貴族、バーベンベルグのレオポルドに授けられた。

 <バーベンベルグ家支配>

 この地を新しく支配するに至ったバーベンベルグ家は恐らく、メルクに居城を持っていたと思われるが、その後東方へ移動し、1156年、
 ハインリヒ2世はウィーンに居城を定めた。 バーベンベルグ家のその後の王達は、ドナウ川の北から東へまた南へと領土を広げていった。
 10世紀も終わりに近づいた996年、ある古文書に前アルプス地帯のこの地を表したオーストリア「Ostarrichi」という名称が初めて登場する。
 バーベンベルグ家の開拓や移住が盛んに行われたのは1200年頃までであるが、特に意義深いのは同家によって設立された修道院や
 施設が、後のオーストリアの文化の中心に発展していった事である。


 <公爵領オーストリア>

 バーベンベルグ家のレオポルド3世が未亡人の皇后アグネスと結婚した事により権力を強めた同家は、115年、皇帝フリードリヒ・バルバ
 ロッサにより辺境伯から公爵への格上げが認められた。 その時の「小特権」と書かれた証書で、皇帝はバーベンベルグ家に対し自分の
 権力に関してかなりの譲渡をした。 神聖ローマ帝国が聖職叙任権闘争に明け暮れている間、バーベンベルグ家は皇帝の見方をし、その
 家臣としてバイエルンのミュール地区の大部分を授かった。 1192年にはバーベンベルグのレオポルド5世が、相続契約によってシュタイヤ
 マルク公爵領を手に入れた。 彼はまた同じ年に十字軍にも参加し、アコンをめぐる戦いで大活躍をした。 その際に、自分の宿敵である
 リチャード獅子心王を捕虜にし、莫大な身代金と引き換えに釈放した。 レオポルドはそれをウィーンやウィーンノイシタットの街の防衛費用
 に充てた。 13世紀前半にはバーベンベルグ家の元で宮廷文化が花開き、ワルター・フォン・デア・フォーゲルワイデやウルリヒ・フォン・
 リヒテンシタインなどの吟遊詩人が活躍した。また、後期ロマネスク様式の建築も隆盛を極めていた。


 <大空位時代>

 1246年、子供のないフリードリヒ2世が、ライタ川でのハンガリーとの戦いに倒れると、その領地は周辺の勢力争いのもととなった。 結局、
 バーベンベルグ最後の王の妹と結婚したボヘミア王のオットカール2世が領土を守ってくれるだろうとの期待から、オーストリアの貴族達は
 オットカールに味方した。 間もなく国の体制は回復し、オットカールは更にシュタイヤマルクを支配下に置き、また、相続契約によりケルンテン
 をも手に入れた。 オットカールの勢力はズデーテン地方からアドリア海まで及んだ。 しかしハプスブルグ家のルドルフが神聖ローマ帝国の
 王に選ばれると、彼はボヘミア王の権力を認めてはおかなかった。 オットカールはその領土を封土とみなす事を拒んだため、追放された。
 多くの家臣を従えていたオットカールは戦いを挑んだが、1278年、デュルンクルトの戦いに敗れた。 バーベンベルグ家の領土はハプス
 ブルグ家のルドルフのものになった。 1282年、ルドルフはオーストリアとシュタイヤマルクの公爵領を2人の息子に分け与え、それによって
 ハプスブルグ家支配の基礎が固められた。


 <600年に及ぶハプスブルグ家支配の幕開け>

 ハプスブルグ家の支配は初めから安定していた訳ではなく、反乱も度々起こっていた。 以前からハプスブルグ家の支配下にあったスイス
 でも、あちこちで暴動が発生し、そのひとつモアガルテンでの敗北により、ハプスブルグ家は領土を失った。 「創立者」の呼称を持つ有能な
 ルドルフ4世は、ルクセンブルグ家の皇帝カール5世が発布した皇帝法「黄金文書」に気分を害され、ハプスブルグ家の権威を示すための
 文章を偽造した。 それが歴史に名を留める「大特権」で、この証書にうたわれた権利は、後継ぎ者のフリードリヒ3世によって行使されるに
 至った。 ルドルフの治世期間(1358〜1365)は短いものであったが、この間にチロル公爵とヴィンド辺境伯領の一部が支配下に入った。
 彼はまたウィーン大学の創設者、ウィーンのゴシック大聖堂シュテファン大寺院の拡張工事を命令した王として文化政策面でも名を残している。
 その後数十年間、相続による領土分割や一族間の争議により、ハプスブルグ家の権力は弱まっていく。 スイスでは更に領土を失うが、
 一方で現在のフォアアールベルグ州の一部を獲得している。 また、アルプレヒト5世は支配地に平和をもたらし、皇帝ジーグムントの娘との
 結婚によりルクセンブルグ家の領土の相続も確実にした。


 <神聖ローマ帝国皇帝としてのハプスブルグ>

 ボヘミアとハンガリーの王アルプレヒト5世は、1438年、ドイツ国王アルプレヒト2世となった。 彼がその後継ぎであるラディスラウスの誕生の
 1年後に死去すると、ラディウスの叔父にあたるチロル系のフリードリヒがその後見人となった。 ラディウスは1457年、若くして亡くなった。 
 後にドイツ王国となり、その数年後には皇帝の位を得たフリードリヒ3世は、その巧妙な政策によりハプスブルグ世界帝国の基礎を築き上げて
 いった。 彼は息子のマクシミリアンをブルグンド王国の相続人であるマリアと結婚させ、また、マクシミリアンも巧妙な政略結婚によって孫の
 フェルディナントとカールにボヘミアやハンガリーばかりでなくスペインの相続権を確保した。 その結果、ハプスブルグ家はオーストリア・
 ドイツ系とスペイン・オランダ系とに分かれた。 1526年、ヤゲロ王朝の最後の王ルートヴィヒ2世がモハッチュの戦いに敗れると、ボヘミアと
 ハンガリーはオーストリアに併合された。 マクシミリアンの時代は、学問と芸術の開花したヒューマニズム時代であったが、彼はまたその
 支配地に近代の管理制度を取り入れた。


 <オスマントルコの侵入>

 14世紀にヨーロッパへ進出しはじめたオスマントルコは、次第に大陸の脅威となっていった。 1453年にコンスタンチノープルを制覇した
 オスマントルコは、度々西へ遠征軍を送り、ハプスブルグ家常に危険にさらされていた。 オスマントルコは2度に渡ってウィーンを包囲した
 ものの(1529年と1683年)、大きな犠牲を強いられた。 その後オスマントルコの勢力は次第に衰退し、その結果オーストリアはハンガリーを
 奪回する事が出来た。 オーストリアが大国への道をたどる際に功績を上げた人物に、サヴォイ公国のスリンツ・オイゲン公がいる。 彼は
 3人の皇帝(レオポルド一世、ヨーゼフ一世、カール1世)に仕えた優れた才能の持ち主で、軍事面ばかりでなく外交の場においてもその才能を
 発揮した。 オスマントルコとの戦いの勝利は、生活面でも新しいムードを作り出した。 当時のバロック様式において、豪華絢爛な建物が建て
 られ、城や教会、修道院などが善美を尽くした。 ここでは、生の喜びが深い宗教感と一体となって、オーストリア・バロックの特徴を醸し出して
 いる。 1700年、スペイン系のハプスブルグ家は断絶した。 それに端を発したスペイン継承戦争の結果、オーストリアのハプスブルグは
 スペインの支配権を失ったものの、スペインの支配下にあったイタリアとオランダを手に入れる事に成功した。


 <マリア・テレジアの改革>

 皇帝カール6世の死によりハプスブルグ家の男系が断絶すると、その娘であるマリア・テレジアが父の後を継いだ。 女性の後継ぎを可能
 にしたのは、1713年に制定されたハプスブルグ家の家憲である「国本勅定で、ここでは主に領土の細分化を防ぐ工夫がされていた。
 ロートリンゲン家 のフランツ・シュテファンと結婚した若いマリア・テレジアは、ハプスブルグの領土を狙う敵から身を守らねばならなかった。
 とりわけプロイセン王 フリードリヒ2世は、領土獲得のためのあらゆる手段を行使した。 少なからぬ犠牲を払った2度の戦争の結果(1740年
 〜48年=シュレジア戦争、1756年〜63年=7年戦争)、マリア・テレジアは主な領土を失わずに済んだが、シュレジア地方をプロイセンに
 引き渡さなければならなかった。 マリア・テレジアは、内政面でも次々と抜本的な改革を遂行し、1745年に神聖ローマ皇帝フランツ1世
 となった彼女の夫も、生涯活動的な妻の影から抜け出す事が出来なかった程である。 マリア・テレジアは新しく国家法を制定し、それまで
 単なる州の集合体でしかなかった領地を一貫して中央管理国家へと変貌させた。 それは、彼女が家臣や助言者に恵まれ、有能な専門家を
 頼りに改革を推し進める事が出来たからである。 ヴェンツェルカウニッツ公はオーストリア外交を担当し、ヴェルヘルム・ハウグヴィッツ伯爵は
 内政改革を実行し、ギデオン・ロウドン伯爵は強力な軍隊を作り 出した。 また、当時の経済機構や学校制度面の改革は、啓蒙的絶対主義も
 下に行われた。マリア・テレジアの息子ユーゼフ2世は、更に改革を 推し進め、農奴解放や信仰の自由、教会や修道院の領地の開放により
 強力な中央集権を築き上げた。 マリア・テレジアとユーゼフ2世の ハプスブルグ宮廷は音楽の都としても栄え、クリストフ・グルック、ユーゼフ・
 ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが大作を書いたのは、皇帝の街ウィーンであった。


 <フランス革命と王政復古>

 オーストリアの絶対主義体制を最初に脅かしたものは、フランス革命の思想で、その影響は徐々にオーストリアまで及んだ。 フランス革命で
 処刑されたマリー・アントワネット王女の甥でマリア・テレジアの孫にあたる皇帝フランツ2世は、フランスの革命に対抗する勢力に加担した。
 その結果、オーストリアはナポレオン・ボナパルトの遠征軍による多大な被害を耐え忍ばなければならなかった。 1804年、ナポレオンが
 フランス皇帝に即位すると、皇帝フランツはその対抗策として自分はオーストリア皇帝を名乗った。 1806年には、フランスの提案に従い
 ライン同盟が結ばれたため、「神聖ローマ帝国」は解体した。 ハプスブルグのフランツ2世は神聖ローマ帝国の即位を捨て、その後は
 オーストリア皇帝フランツ1世として在位した。 ナポレオン軍の度重なる遠征によってオーストリアは荒廃し、ウィーンは2度に渡って占領
 されたが、カール大公の率いるオーストリア軍がアスペルンでナポレオンの大群を破ると、ナポレオンも無敵ではない事が証明された。 やがて
 「ヨーロッパの卸者」と称されたオーストリアの宰相クレメンス・メッテルニヒ侯爵の催したウィーン会議によって、ヨーロッパは再び古い体制が
 もたらされた。 19世紀の前半には、技術が目覚しく進歩し、イギリスで発明された蒸気機関が経済の様々な分野に入り込んだ。 鉄道が
 敷設されて交通機関は飛躍的に発達し、新しい機械の導入によって様々な産業が発達した。 都市の人口は工場で働くようになり、そこに
 労働者階級が誕生した。


 <1848年の市民革命>

 1848年にフランスで始まった市民革命の波は、その年の春、オーストリアにも押し寄せた。 自由主義者たちは憲法の制定と言論の
 自由を求めた。 メッテルニヒのしいた悪評高い警察国家体制は一掃され、彼は引退を余儀なくされてイギリスに逃れた。 しかし10月の
 革命は失敗に終わり、保守主義が勝利を収めた。 皇帝フェルディナントの後継ぎで、若くして即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、新絶対
 主義体制を確立した。 フランツ・ヨーゼフがクリミア戦争中(1854年〜56年)に行った不手際な中立政策によって、オーストリアは
 ヨーロッパで孤立し危うい立場に立たされた。 すなわち、オーストリアだけがフランスと共にイタリアの独立運動を推し進めていた
 サルディニアと対立した。 1859年、オーストリアがマゲンタならびゾルフェリでの戦いに敗れると、ロンバルディア地方を手放さなければ
 ならなくなった。 また、議会などの内政的圧力により「十月文書」や「二月指令」の際にも、妥協を余儀なくされた。 更に、オーストリアを
 ドイツ連邦から排除する事を狙っていたプロイセンとの対立においてもオーストリアは1866年、ケーニヒゲレッツでの戦いに敗れた。
 同時期のイタリアの戦いには勝ったものの、イタリア統一運動のためヴェネツィア を手放さなければならなかった。 プロイセンの宰相
 オットー・フォン・ビスマルクの巧みな融和政策により、オーストリアはプロイセンに対し領土を 失う事はなかったが、ドイツ連邦からは
 永久に追放され、ドイツ帝国には一切口出しが出来なくなった。


 <オーストリア・ハンガリー二重帝国>

 1848年、49年にハンガリーがロシアと共に起こした反乱は、オーストリアによって厳しく鎮圧されたが、プロイセンに敗北したオーストリアは、
 ハンガリーに対し今度は融和政策を取り始めた。 1867年、ハンガリーは、君主、外交、金融、軍隊を共同にするオーストリア国家同盟の
 一員となった。 この時期には市民の基本権確立のための動きが活発になった。 1907年には帝国議会にてオーストリア初の直接普通
 選挙が行われた。 第一次世界大戦までの比較的長く続いた平和期には、オーストリア・ハンガリーがドイツ帝国およびイタリアと三国同盟を
 結んだ事もあり、ヨーロッパでは複雑な同盟関係が支配していた。 しかし、ヨーロッパでの紛争が激化すると多民族国家のナショナリズムが
 台頭し緊張を招いた。 また、人間的な労働条件と賃金の是正への解決策を求めて労働者階級が立ち上がった。 この相対的安定期に
 オーストリアの経済は飛躍的な成長を遂げた。 ウィーンは大都市として急速に発展し、当時新しく建設されたウィーン環状道路には大建築
 時代の意気込みが現れている。 また、世紀末の芸術や文化は、現代に直接影響を与える画期的なものであった。 1914年6月28日、
 サラエボにおけるオーストリアの皇太子フランツ・フェルディナントの暗殺が引き金となって第一次世界大戦が勃発した。 4年間に渡る無意味な
 戦争で、ヨーロッパの列強は互いにいがみ合ったが、アメリカ合衆国の参戦によって局面が打開された。 オーストリア・ハンガリー、ドイツ帝国
 およびこの2国に関係したトルコが 敗北すると、それまでのヨーロッパ体制は見る間に崩れた。 こうしてオーストリア・ハンガリー二重帝国は
 崩壊して、ハンガリーは国家同盟を離脱し、オーストリアは共和国となった。


 <オーストリア共和国>

 オーストリアの最後の皇帝カール1世がオーストリアの支配権を放棄した翌日、暫定国民議会は国名をドイツ・オーストリア共和国とする事を
 提言し、同時にドイツへの帰属を宣言した。 しかし、講和条約である国家条約によれば、新しい共和国はドイツへの帰属を禁止されており、
 国の名前もオーストリアでなければならなかった。 この時オーストリアは南チロルやズデーテン地方を失ったが、今日のブルゲンランド州
 であるハンガリー西部地方を獲得した。 誕生当時のオーストリア共和国は、経済が困窮を極めていたため、解決困難な問題を多く抱えて
 いた。 周りの新興国は重要な原料資源の輸出を禁じ、ウィーンの市民は餓死寸前の状態まで陥った。 それでも1920年代の半ばには、
 オーストリア政府は通貨を安定させ、近隣諸国との経済関係を築く事に成功した。 しかし、内政面では様々な動きが出てきた。 幾つもの
 イデオロギーが対立し、社会民主党による「共和国防衛同盟」や市民陣営による「護国団」という2つの半軍事的組織が対立し、騒ぎを起こし
 ていた。 その最大の犠牲は、政治犯の納得のいかない釈放に反対して行われたデモ隊が極めて残酷な方法で鎮圧された時で、90人以上の
 市民が命を奪われた。 当時既に政治恐慌が始まっていたが、その波はオーストリアにも押し寄せ、数十万人もが失業し内政を緊迫させた。
  また、右派勢力により、イタリアのファシズムを手本にした独裁政権の確立が叫ばれるようになった。 1933年当時の首相エンゲルベルト・
 ドルフスは、民主主義の機関を一掃し、権威主義国家を打ち立てるため、国内の対立を利用した。 当時の内閣は、社会民主主義と共に
 ドイツのナチスの圧力を受けており、こうした内政的混乱は市民戦争を招いた。 1934年2月の社会民主党の反乱は容赦なく弾圧され、多くの
 人が死刑宣告を受け、労働者の政治的活動は全て禁止されるに至った。 1934年7月のナチスの反乱は失敗に終わり、その首謀者は軍事
 裁判にかけられたものの、その際にドルフス首相が殺害された。 ドルフスの後を継いだクルト・シュシニック首相は、イタリアやハンガリーとの
 同盟により、オーストリアの地位を維持しようとしたが、ナチスの支配するドイツ帝国の外交政策は着々と成功を収め、オーストリアもその強い
 影響下にあった。 シュシニックは、1938年にアドルフ・ヒトラーとの単独協議において有利な策を引き出そうとしたが失敗した。


 <オーストリア解体>

 オーストリアの独立を国民投票にかけて守ろうとしたシュシニック内閣の試みは、1938年3月12日ドイツ帝国の最後通知とドイツ軍の
 オーストリア侵略によって崩れた。 しかし、当時既にナチスを信望するオーストリア人もかなりの数にのぼっていた。 1938年3月13日、
 オーストリアのドイツ併合が達成され、 更に4月10日には国民投票の結果、合法化された。 こうして占領されたオーストリアは、オストマルク
 法(1939年制定)によって 国としての独立性を失い、オーストリアという名も消滅した。 その後間もなく第2次世界大戦が勃発し、この戦争は
 戦う事の出来るオーストリア人は全て参加させられた。 既にオーストリアのユダヤ人にとっては破滅を意味していた。 少数のユダヤ人は
 その前に亡命したが、1938年3月以後 亡命を認められた人は少なく、大部分のユダヤ人はナチスの狂気の犠牲となった。 また、ナチス
 政権に抵抗したオーストリア人は、多くが刑務所や収容所に送られ、処刑された。


 <終戦と開放>

 戦争の末期になると、活発な抵抗運動を進めていたグループはオーストリアの開放を早めるため、オーストリアに侵入して来る連合軍と連絡を
 取り始めた。 1945年4月27日には、カール・レンナーの率いる暫定政府がオ−ストリアの独立を宣言した。 その際、オーストリアの独立が
 連合軍の戦争目的の1つである事が述べられた1943年のモスクワ宣言が引き合いに出された。 東、南、および西から侵入して来た
 連合軍は、国土を4つの占領区に分けた。 国全体が混乱と空腹に陥ったが、1945年、初めての自由選挙が行われ、民主主義を信奉する
 党が勝利を収めた。 オーストリアは再び独立国となり、それは全ての国民の願いとするところであった。


 <完全独立>

 戦後オーストリアの政治家が目指したものは、経済の復興と共に国の完全独立であった。 オーストリアは最初、平和条約の締結に期待を
 かけていたが、それは東西の紛争や冷戦の始まりによって無に帰した。 ところが、中立主義を交渉の新しい要旨に掲げたユリウス・ラーブ
 首相によって転機がもたらされた。 こうして1955年10月26日、オーストリア国民議会は、オーストリア永世中立に関する憲法規定を自ら
 決議した。 同じ年の12月にはオーストリアの国連への加入が認められ、それ以来国連の活動に積極的に参加している。 また、ウィーンには
 1979年以来国際センター が置かれ、国連の本拠地となっている。


9つの連邦州


 オーストリアは9つの州からなる連邦国家である。 その州とはウィーン州、ブルゲンラント州、ケルンテン州、ニーダーエスタライフヒ州、
 オーバーエスタライヒ州、ザルツブルク州、シュタヤマルク州、チロル州、フォアアールベルク州であり、この9つの連邦州を合わせた国土の
 総面積 は8万3,855Kuとなっている。


 <ウィーン州 (面積415Ku 人口約154万人)>

 ウィーンは連邦の首都であると共に、それ自体1つの州でもある。 ニーダーエスタライヒ州に取り囲まれた形で、国の東部に位置し、ハンガリー
 およびチェコ、スロヴァキア国境まではわずか60Kmしか離れていない。 ウィーンがヨーロッパの非常に重要なメトロポリスの一つにまで成長
 したのは、この地が地政学的に重要な地点、すなわち、バルト海・地中海地点とを結ぶ古くからの陸路と河川交通の盛んなドナウ川のちょうど
 接点にあったという要因が大きく作用している。 首都ウィーンは、連邦の立法府、行政府、中央官庁、最高裁判所、それに多くの国際機関の
 所在地である。 また、ウィーンでは国際会議が度々開催され、ヨーロッパ観光の一大中心地でもある。 絢爛たる建造物、ヨーロッパの
 あらゆる時代の貴重な芸術品を所蔵する美術館や博物館は、「青きドナウ」沿いの都市ウィーンの偉大なる過去を立証している。 更にウィーン
 の多くの大学、美術学校、また高度な音楽・演劇文化は、ヨーロッパ圏に果してきた都市の精神的・文化的役割を力強く物語っている。 毎年
 開催される「ウィーン芸術週間」や「ウィンナーレ」映画祭は、国際的アトラクションである。 ウィーンは数世紀に渡たり、ハプスブルグ帝国の
 首都であった。 また、ウィーンの音楽の都としての意味も大きい。ウィーンはオーストリアの経済の中心地であり、金属加工、精密機械、電気
 工業などの大工場が多く存在する。 またこの州は、美術工芸品、ファッションなどの中心地でもある。 オーストリアの大手銀行、貯蓄銀行、
 保険会社や大企業は多くがウィーンに本店を構えている。 また、春と秋に国際見本市が開かれ、また部門別の見本市も度々開催されて
 ウィーンは国際商業都市としての機能をも果している。


 <ブルゲンラント州(面積3,965Ku 人口約28万人)>

 オーストリア最東部に位置するこの州は、ニーダーエスタライヒ州とシュタイヤマルク州とに接している。 ドイツ語を話すハンガリーの辺境
 地帯が、サンジェルマン平和条約(1919年)でオーストリアに帰属する事になった後、1921年に成立したこの州は農業州として際立って
 いる。ここでは、小麦、トウモロコシ、野菜等が栽培されており、更に果物や、特にワインは重要な産物である。 このような作物の栽培は、
 一方でブルゲンランド州の缶詰食品工業の成立を促した。 ブルゲンランド州の美しい風景は、多くの観光客を引き付けている。 なかでも中部
 ヨーロッパで唯一のステップ湖であるノイジートラー湖は観光の名所となっている。 州都のアイゼンンシュタット(人口約1万人)は、かつて
 ユーゼフ・ハイドンが活躍した街で、彼はこの街にあるベルク教会に葬られている。 アイゼンシュタットのエスターハージー城ではブルゲン
 ランド・ハイドン・フェスティバルが開催されて いる。 州の代表的な催しとしては、7月および8月にメルビッシュ(ノイジートラー湖)にある湖上
 舞台で開催されるオペレッタや、7月のロッケンハウス 室内音楽祭が挙げられる。


 <ケルンテン州(面積9533Ku 人口約55万人)>

 ケルンテン州はオーストリアの最南部の州である。 西武の山の多い上部ケルンテンと東部の盆地地帯下部ケルンテンに分けられるが、全体
 として周りを山に囲まれた地域となっている。 ここで特に有名なのは、州都のクラーゲンフルト(人口約8万9千人)付近の「オーストリアの
 リヴィエラ」と言われるヴェルター湖およびミルシュテッター湖畔の水浴地は、国内、国外から休暇を過ごすために訪れる観光客の格好の地
 である。 この州は更に第4の湖ヴァイセン湖の他、大小200にも及ぶ湖がある。 また、文化的関心の深い観光客は、芸術祭「ケルンテンの
 夏」が行われる時期を 選んでケルンテンを訪れている。 ケルンテン南部には数百年も前からスロヴェニア人が住んでいる。 ガイル谷南部、
 ローゼ谷およびヤウン谷 では、ドイツ語を話す住民と、スロヴェニア語を話す住民が入り混じって生活している。 ケルンテン州の最も重要な
 産物は木材であり、毎年夏 クラーゲンフルトで開催されるケルンテン見本市は、中部ヨーロッパで開かれる最も有名な木材見本市である。 
 また、高山地帯およびドラウ川の水力発電は、オーストリアの電力供給に大きな役割を果している。 更にこの州の山岳部からは鉄、鉛、亜鉛、
 タングステン、マグネサイドも採掘 されている。 これらの鉱物を原料としたフェルラッハ市の鍛冶工業は、フィルラッハ市のエレクトロニクス
 産業のように世界の最先端を行くものも ある。 フィルラッハ(人口約5万5千人)は、スロヴェニア人、イタリアとの国境近くに位置し、東部
 アルプス地方の道路、鉄道の要衝の地ともなって いる。


 <ニーダーエスタライヒ州 / 下オーストリア州(面積1,9172Ku 人口約147万4千人)>

 オーバーエスタライヒ州を流れてきたドナウ川が横切るニーダーエスタライヒ州は、面積から言えばオーストリア最大の州で、州都はサンクト・
 ペルテン(人口約5万人)である。 オーバーエスタライヒ州都同様に、この州では伝統的行政区分は、森林地区、ワイン地区というように地区名
 で呼ばれている。 ニーダーエスタライヒ州は、他のどの州よりも穀物畑、野菜畑、ブドウ園等の耕地面積が広く、多くの農業生産物、たとえば、
 小麦、砂糖大根の生産では国内第一の地位を占めている。 ヴァッハウやグルポルドキルヒェン、バーデン、フェスラウのワインはワイン通から
 高い評価を受けている。 歴史的にもオーストリアの中核をなすこの州は、地下資源にも恵まれており、この資源を活かして工業地域としても
 発展を遂げてきた。 例えば、ヴェハト大精油所の製油能力は、年間1,250万トンにも上る。 更に、ウィーン盆地の南部には、化学、鉄鋼、
 金属等の大企業があり、繊維、食品等の工場も多い。 この州を流れるドナウ川およびその支流であるカムプ川には、第二次世界大戦後、
 国の電力供給を目的に大出力の発電所が次々に建設されてきた。 オーストリア最大級の火力発電所のいくつかもウィーン周辺の工業地帯に
 集中し、ここにはコルノイブルクやホーエ・ヴァント、更に石炭発電のデュルンローア等の大発電所がある。 また、ここには中部ヨーロッパ唯一
 の変電所もあり、西ヨーロッパから東ヨーロッパへ、また逆に東ヨーロッパから西ヨーロッパへの電力の輸送を可能にしている。 ニーダー
 エスタライヒ州には発掘遺跡や文化遺産も豊富に存在する。 発掘物にはヴィレンドルフのヴィーナスのように石器時代のものから、カルン
 トゥームの陣営のように「オーストリア・ロマーナ」の時代のものもある。 ロマネスクやゴシック様式の修道院や教会、バロック様式の壮大な
 僧院館の数々で、ニーダーエスタライヒ・ドナウ・フェスティバルが代表的な催しであり、ここではあらゆる分野の芸術が提供され、国際的に
 高い評価を受けている。


 <オーバーエスタライヒ州 / 上オーストリア州(面積1,980Ku 人口約133万4千人)>

 エンス川を見下ろすこの州は、地形上3つの様相を呈している。 すなわち、北にはドナウ川によってアルプス山麓と隔てられている花崗岩・
 片麻岩の高地があり、その南にはザルツカンマーグートが広がり、更に南には、石炭質のアルプスの山々がそびえている。 ザルツカンマー
 グートの湖沼地帯には、オーストリアでも最も魅力に富んだ景勝の地である。 アッター湖、トウラン湖、ヴオルフガング湖等の水は、ケルンテン
 州の湖ほど暖かくはなく、気候もやや寒冷である。 世界各地からのこの地を訪れる観光客は、この土地の魅力をオペレッタのメロディーから
 のみでなく、実際にその目で確かめる事が出来る。 ハルシュタット湖畔のハルシュタットは、先史時代の文明の名前となった地である
 (ハルシュタット文明)。 丘陵地帯では盛んに農業が行われ、そこはまたオーストリア第2の石油・天然ガスの埋蔵地にもなっている。 
 この地は水資源にも恵まれ、第二次世界大戦後ドナウ川をはじめ、その支流のエンス川に多くの水力発電所が建設された。 工業部門では、
 シュタイルにあるシュタイル・ダイムラー・プッフ社の工場がエンジン、トラクター、トラック、ボールベアリングの生産者へと発展を遂げた。 また、
 近代的な河川工業港を持つドナウ川ぞいの州都リンツ(人口約20万3千人)一帯には、鉄工業や化学工業の大企業がある。 なお、リンツ
 では、1974年以後「文化活動プログラム」として、「インターナショナル・ブルックナー・フェスティバル」が開かれている。 オーバーエスタライヒ
 州の他の地方について述べてみると、ランスホーフェンには、オーストリア最大のアルミニウム工場があり、また、レツィングでは、ステープル
 ファイバー等の合成繊維の生産が行われている。 更に、ヴェルスおよびリートでは国際見本市が開かれ、オーバーエスタライヒ州内外の
 農業、工業の成果が紹介されている。


 <ザルツブルグ州(面積7,154Ku 人口約48万2千人)>

 ここでは昔から塩(ドイツ語でザルツ)が採掘され、この州および州都の名前はこれに由来している。 この州は、石炭質アルプスの一部や、
 湖沼地であるザルツカンマーグート西部、キッツビューエル・アルプスの東部、ホーエタウエルン山脈の北部それにニーデレ・タウエルン山脈の
 西部を擁している。 州都ザルツブルグ(人口約14万4千人)は、州政府の所在地であるとともに、ザルツブルグ大司教の本拠地でもある。
 州全体としても世界各地から多くの観光客を集めているが、特に第二次世界大戦後からの数年の間に「モーツァルトの街」として世界的
 観光地に発展を遂げたザルツブルグ市は有名である。 このザルツブルグ旧市街は、総合芸術区として保護されている。 また、バードガ
 シュタインやバード・ホーフガシュタインは、温泉保養地として国際的に有名である。 ウィンタースポーツのメッカとしてはザールバッハ・ヒンター
 グラム、ツェル・アム・ゼー、カプルーン等が挙げられる。 カプルーンはまた、タウエルン山脈のグロックナー・カプルーン発電所でも広く
 知られている。 高度に発達し一部輸出専用に発達した工業や、非常に盛んな観光業と並んで、ザルツブルグは文化的、学問的にも重要な
 州である。 この州では1920年に始まり世界的名声を誇るザルツブルグ音楽祭の他にも、ヘルベルト・フォン・カラヤンが創設したイースター
 音楽祭や精霊降臨際コンサート等が開かれる。 尚、1962年にはザルツブルグ大学が再開された。


 <シュタイヤマルク州(面積16,387Ku 人口約118万5千人)>

 シュタイヤマルク州は全体の面積のおよそ半分が森林で、更に4分の1が緑地、牧草地、ブドウ畑等によって占められている事から、「緑の
 辺境地(グリューネマルク)」とも呼ばれている。 また、州北部の山岳地オーバーシュタイヤマルクは鉄資源が豊富で、鉄工業が盛んなため、
 「鉄の辺境地(エールネマルク)」との別名もある。 鉱業では、シュタイヤマルク州はオーストリアの中では最大の生産高を誇っている。 
 国内で採掘される鉄鉱石の10分の9はシュタイヤマルク鉄鉱山からのものである。 シュタイヤマルク西部からは、褐炭が掘り出される。
 また、この州にはマグネサイトも豊富に分布しており、これを利用したマグネサイト製品は多くの国に輸出されている。 これらの鉱業や石炭
 鉄産業の学問的中心は、レオーベンにある鉄鉱大学である。 工業に関して言えば、ムール谷やミュルツ谷付近は、鉄鋼工業や機械工業の
 中心地である。 更に、この州ではパルプや電気等の工業も重要で、大型プラントからエレクトロニクス製品に至るまであらゆる分野に渡る
 工場がある。 世界各地に輸出される自動車・車両産業の中心地は、グラーツである。 このシュタイヤマルクの州都グラーツ(人口約24万人)
 は、オーストリアの経済・文化・教育の中心地であり、絵のような旧市街の中心には、時計台を伴ったシュロスベルグがそびえ、街のシンボル
 となっている。 尚、シュタイヤマルクで開催されるオーストリアの現代芸術際、「シュタイヤマルクの秋」は全国的に知られている。


 <チロル州(面積12,6477Ku 人口約63万人)>

 世界的にも有名な保養地のひとつチロルは、ある種のイメージと結びついている。 それは、山と森、アルプス登山やウィンタースポーツ
 (1964年と1976年に冬季オリンピックが開催された)、美しい自然の中の古い農家や色彩豊かな風俗等である。 チロルは、観光においては
 オーストリアの外貨の稼ぎ頭となっているが、また水力発電による電力生産の面でも重要で、バイエルンを中心にドイツ南西部に張り巡らされた
 電力網を通じてヨーロッパ経済に重要な役割を演じている。 また、チロル州の国際的に知られている工業の担い手としては、プランゼー
 金属工業(冶金)、イェンバッハ工業(ディーゼル・車両)、スワロフスキー(光学機械、ガラス装飾品)等が挙げられる。 チロルはヨーロッパの
 交通の要所でもあり、州都インスブルック(人口約12万人)を通りランデックまで完成したインタール・アウトバーンやブレンナー・アウトバーンは
 いずれもヨーロッパ道路になっている。 14キロに渡るアールベルグ・トンネル道路により、冬でもフォアアールベルク州とチロル州との道路
 交通が可能になった。 更に、国境を越えずに北チロルと東チロルとの往来が出来るようになったのは、フェルバータウエルン幹線道路の
 貫通によってである。 チロル州は学校と教育の州であり、知識人の出会いの場、現代の芸術・文化の地でもある。 インスブルックでは、
 夏期に古楽の音楽祭や、アンブラス宮殿コンサート等が開催される。 また、「アルプバッハ・ヨーロッパ・フォーラム」は、現在ヨーロッパに
 おける最も重要な知識人集会である。


 <フォアアールベルク州(面積2,601Ku 人口約33万2千人)>

 フォアアールベルク州はオーストリアの再西部に位置する州で、ウィーン州に次いで小さいな州である。 フォアアールベルク州の人々の話す
 言葉はアレマン方言であるが、これはスイス方言やシュヴァーベン方言に近いドイツ語である。 ボーデン湖とアールベルク山に挟まれたこの
 「小州」は多彩な風景に恵まれ、その風景の美しさは特に外国からの観光客に定評がある。 州の主要産業は、観光業を別にすれば、工業と
 エネルギー産業である。 フォアアールベルク州の繊維産業は、オーストリア全産業の中でも重要な産業である。 豊富な水資源から得られる
 電力は、国内だけではなく、ヨーロッパの送電網を通じてドイツやベネルクス3国にも供給されている。 チロル州の州境に位置するアール
 ベルク山一帯はアルペンスキーの牙城として世界的に知られている。 また、クラネ・ヴァルザータール、モンターフォーレン、ブレゲンツの森等も
 有名な観光地となっている。 フォアアールベルク州の州政府の所在地は、ボーデン湖畔にあるブレゲンツ(人口約2万7千人)で、ここで
 開かれる音楽祭は国際的に有名である。 1980年代の初めに、新しい祝祭劇場兼コンサートハウスが完成した。 州内で最も人口の多い
 街は、商業都市ドルンビルン(人口約4万1千人)である。