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ノボシビルスク (Novosibirsk) |
ロシア皇帝アレクサンドル3世の命により、ロシア帝国内部の鉄道網整備のため、1893年5月20日、松林しかなかったオビ川の堤防で橋の建設が開始された。 これが後にロシア・アジア地区最大の街へと変貌を遂げ、今では「シベリアの首都」と呼ばれているノボシビルスク市の最初の歴史とされている。 1897年春にはオビ川を横断する橋は完成し、同時に駅と鉄道車庫も整備された。 その当時、ノボシビルスクはまだ「ノボニコラエフスク」と呼ばれていた。 その後多くの建設技師達はこの地を去ったが、地の利を生かして短期間で大都市へと変貌する事に成功し、1903年12月にノボニコラエフスク村は市へと昇格した。
1906年にはシベリア銀行一軒のみの立地だったが、1915年には5つの都市銀行と2つの国立銀行が操業を開始した。 この頃から街の人口は急速に増加し、1897年当時、人口は7〜8千人程度しかなかったが、1903年には近隣の村を合併し、人口2万2千人となった。 その後1907年には4万7千人、1917年のロシア二月革命時には8万人を数え、発電所、鋳鉄製造工場、市場、銀行、7つの正教会、ローマンカトリック教会、数件の映画、約40の初・中等教育機関が相次いで建設された。 また、ノボニコラエフスク市はロシアで最初に義務教育を受け入れた街としても有名である。 1915〜17年はロシア革命によりソ連国内は荒廃したが、ノボニコラエフスクはその間も順調に発展を続け、軍需産業により裕福になった商人たちにより店には品物があふれ、
市内を走る路面電車の建設が検討され始めた。 1917年12月、ソヴィエト労働者階級、軍事部、および下院議員たちがノボニコラエフスクの権力を握り、それに続いて市民戦争が勃発した。 1918年5月、チェコスロヴァキアの捕虜達が白軍と共に暴動を起こし、ノボニコラエフスクを占拠し、街は一時50万にも及ぶコルチャック軍の重要な戦略基地となったが、1919年12月にソ連赤軍により奪還された。 この内戦は「白軍」「赤軍」による恐怖政治を生み出し、軍事行動やチフス、コレラが流行し、数千人もの命が奪われ、更にはオビ川を横断する橋も爆破された。 順調に伸びていた人口もこの時始めて減少に転じた。 ノボニコラエフスクはレーニンの新経済政策の元、1921年になりようやく復興し、外へ出ていた労働者達も以前働いていた職場や工場に戻り、
再び穀物等の取引が行われ、活気のある街へと戻った。 オムスクから始まったボリシェヴィキの統制はすぐにノボニコラエフスクまで到達し、1925年にはヴァスガン湖沼地帯から上バイカル・ステップ地帯までの線引きが完了し、これと同時にノボニコラエフスクはこれらの地区の行政的中心地となった。
1926年ノボニコラエフスクは新しいシベリアの街を意味する「ノボシビルスク」へと名称を変更し、西シベリアにおける行政中心地としての地位は多方面に影響を及ぼした。 また、高層ビル群が建設され始めたのもこの時期である。 スターリンの時代には商業都市ノボシビルスクはシベリアで最も重要な工業都市へと変貌を遂げ、巨大な工場や金属加工プラント、高出力発電所等が次々と建設された。 1932〜33年にかけてロシア中部では飢餓が起り、17万人もの難民がノボシビルスクへ押し寄せた。彼等はバラックや掘っ立て小屋を郊外に作り定住し、スラム街は雨後のたけのこのごとく急速に膨れ上がった。
しかし、街の中心地は以前のように保たれ、スターリン様式の巨大な行政ビル等の建設ラッシュが続いた。 幸運にもシベリアには優れた建築家が多く、これらの大袈裟な建造物も中央の意のままに計画通り実行に移された。 1954年には路面電車が市中心部に建設され、シベリア最大の街の人口は28万7千人にまで膨れ上がっていた。 1955年に入り、ノボシビルスクでもようやく自由様式の建築が始まった。 時期を同じくしてノボシビルスクでは街全体の修復と改修が始まった。 急速な工業の発展に伴い、街を取り巻く自然環境も変化した。 50年代の中旬には400キロワットを発電する水力発電所が建設され、その時に人工的に造られた貯水湖は今では市民から「オビ海」と呼ばれている。 しかしこの発電所建設によりノボシビルスク市全体の電力供給の問題解決までには至らなかった。 |
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