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1942年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、既にカナダ各地には独自の文化を持ったインディアンのグループが存在し、
特に気候の温暖な西海岸や東部のセントローレンス河流域の肥沃な土地を中心に生活をしていた。 また、北極圏にはイヌイットが
住んでおり、第二次世界大戦後に近代文明が入り込むまでは先祖から受け継いだ生活様式を守って暮らしていた。 最初に
カナダを訪れたヨーロッパ人はバイキングだったと言われており、カナダ東部のニューファウンドランドには西暦10世紀頃、彼らが
拠点を置いた跡が今でも残っている。
カナダに最初に名乗りを上げたのはフランス人たちだった。 1534年にジャック・カルティエがセントローレンス河口に立ちフランス
領土を宣言したのが、カナダ植民地の始まりである。 【カナダ】という国名の語源は、ヒューロン・インディアンの言葉で「村」を意味
しており、それが今日まで使用されている。 オタワ郊外には「カナタ」という名の街があり、この他にもトロント、ウィニペグ、
オタワ等の各地名もネイティブ・インディアンの言葉を語源としている。
1663年、カナダはフランスの1州となったが、当時既に6万人のフランス人入植者が現在のケベック州を中心に住んでいた。
17世紀には土地開拓と毛皮貿易をめぐり、ネイティブ・インディアンとフランスとの戦いが各地で起こった。 フランスは18世紀
前半までにはオンタリオ、マニトバ、サスカチュワン各州南部に数々の砦を建設した。 1670年にはイギリスも北のオンタリオの
ハドソン湾にハドソンベイ会社を設立、1713年までにカナダ東岸への入植を開始し、ニューファウンドランドのほぼ全てがイギリス
の勢力圏内となった。
1754年、それまで各地で衝突を繰り返していたイギリス軍とフランス軍が7年戦争を開始し、1759年のケベック市陥落から
イギリスが優勢に転じ、1763年のパリ条約でカナダは正式にイギリスの植民地となった。 しかし、領土の大半の住民は
フランス系だったため、統治に苦慮したイギリスは、1774年のケベック法で仏系カナダ人に宗教の自由を与え、仏系民法の
法廷における使用や、官職につく可能性までを認める譲歩を行った。 しかし、政治経済の主導権はイギリス系に握られていた
事から、今日に繋がるフランス系住民の独立運動への火種をまく結果となった。
1775年、アメリカ独立革命軍がモントリオールを占拠した。 この時にイギリスに忠誠を誓った「ロイヤリスト(王党派)」約5万人が
主に大西洋州、オンタリオ州に定着し、この大量入植によりイギリス系とフランス系の人口がほぼ均衡化された。 ケベックと
オンタリオが創設されたのはこの直後の事である。 1812年〜14年には、アメリカとイギリス領カナダとの間で最後の戦争が
勃発し、カナダ軍はワシントンまで攻め込んで行った。 この時に米大統領官邸はカナダ軍によって焼かれ、黒こげとなった。
その外壁を白ペンキで塗った事から「ホワイトハウス」という名が生まれた。
1840年にはそれまで分かれていたアッパーカナダ(オンタリオ州・英国系)とローワーカナダ(ケベック州・仏系)を1つの政府下に
統一する事が決定された。 1867年、既に植民地アメリカを失っていたイギリス議会はカナダがその二の舞になる事を恐れ、
中央政府と各々の植民地に一定の権限を与える「英領北米法」を制定、オンタリオ、ケベック。ノバスコシア、ニューブランズウィック
各植民地から成るカナダ自治領を成立させ、これがカナダ建国の年となり、、7月1日はカナダの独立記念日(Canada Day)として
祝日になっている。 初代首相はジョン・マクドナルド、統治のカナダの人口は約350万人だった。
1950年代、理想主義と自由主義に支えられた社会福祉制度を導入し、世界でも最も優れた社会福祉、医療制度が生まれた。
しかし一方で、ケベック独立運動が再び芽吹き、過激派のテロ事件が発生した。 1967年にはカナダ建国100周年を記念して
「移民が作り上げた国、カナダ」の門戸を更に開放し、世界各国から大量の移民を受け入れ始めた。 日本からもこれを切っ掛け
に、毎年数百人に上る新移住者がカナダに移住している。
1982年、自由党のトルドー内閣の下、カナダ憲法が成立し、長期に渡るイギリスからの半独立状態に実質的に終止符が
打たれた。 しかし、ケベックの取り扱いをめぐり、この憲法は最終的な批准が得られておらず、1987年のミーチレーク協定、
そして92年のシャーロットタウン協定はいずれも批准に失敗、カナダの憲法問題は今のところ宙に浮いた状態となっている。
1989年にはアメリカとの自由貿易協定が施行され、カナダとアメリカを1つの経済圏にする基礎が生まれた。 更に1992年
には、メキシコが加わった北米自由貿易協定(NAFTA)の調印が行われた。
1999年4月1日、13番目の州となるヌナブット準州が誕生し、ノースウェスト準州の広大な東部一帯、日本の5倍以上の土地が
新しい準州として分割された。 ヌナブット成立を熱望し、カナダ連邦政府と交渉を繰り返してきたのはイヌイットの人たちである。
1900年代中旬、極北地方では石油などの資源開発のためにイヌイットの人たちが定住した。 それまでこの地方の人たちは
家族単位の小人数グループに分かれてアザラシやカリブーなどの動物を追い、イグルーにキャンプしながら移動する生活を送って
いた。
しかし、伝統的な生活に終止符を打ち、街に住み、政府が提供する衣食住や社会保障に依存する生活へ移行せざるを得なく
なったイヌイットの間には、独自の文化を守りたいという意識が高まって行った。 1970年代にはイヌイットによる自治獲得の
ための組織を結成し、連邦政府との交渉が繰り返された。 1993年には【ヌナブット協定】が締結され、これにより新しい準州の
創設、イヌイットの狩猟権と土地所有権の確保、そしてカナダ政府からの5億8000万ドルの補償金の支払いが取り決められ、
1999年のヌナブット準州の誕生となった。
ヌナブットの人口は2万7000人で、このうち8割以上をイヌイットが占めているため、実質的にはイヌイットの自治州となっている。
この新しい準州の誕生は、世界中から、特に先住民問題を抱える国々から注目される大きな出来事となった。
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